メールマガジン『学級通信のネタ』バックナンバー
第128号
☆極端にならない 〜中道の教え〜
修学旅行で多くのお寺を巡りましたが、これらはすべて宗派は違いますが、仏教の教えを引き継いでいるお寺です。
仏教を興きたのは今から二千五百年前、カピラバスト国の王子として生まれたゴーダマ・シュダルダは、王宮の何不自由のない生活を捨て、苦行の旅へと出ます。快楽の中では悟りは開けないと考えたからです。しかし後に、苦行でも悟りを開けないことに気づきます。
そのときの逸話が、スジャータの話です。川辺で琴を奏でていたスジャータという娘の歌には、「弦は強く張りすぎると切れてしまう。張りが弱いといい音色が出ない」という部分がありました。その言葉にハッとしたコーダマは、その娘の近くに寄ってきました。娘は、疲れ果てやせ細ったゴーダマにミルク粥を差し出します。その姿を見た、他の修行者たちは、「ゴーダマは修行を捨てた」と考えたのですが、実際は「極端の生活の中では悟りは開けないこと」を確信した瞬間でした。のちに釈迦と呼ばれるのは、ゴーダマの一族が釈迦族という名で呼ばれていたからです。仏陀とも呼ばれますが、これは「悟りを開きたる者」という意味です。
こうした極端に走らないことを『中道』と言います。仏教はこの思想が中心になっています。「何事にもとららわれすぎてしまうと、自分自身が苦しくなる。極端を捨て、ちょうどよい選択をしたときに、真の幸福が訪れる」というのです。
仏典には材木のたとえとして今も話しが伝わっています。「一本の材木が、大きな河を流れているとする。その材木が、右左の岸に近づかず、中流にも沈まず、陸にも上らず、人にも取られず、渦にも巻き込まれず、内から腐ることもなければ、その材木はついに海に流れ入るであろう。この材木のたとえのように、内にも外にもとらわれず、有にも無にもとらわれず、正にも邪にもとらわれず、迷いを離れ、さとりにこだわらず、中流に身をまかせるのが、道を修めるものの中道の見方、中道の生活である 」
、と…。
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