ネタ探しのコツ
いざ、通信を書こうとするとき、『ネタがない!』、というのはよくある話。だから、ネタ切れなると、だんだんと発行するのが億劫になって、なかなか長続きしなかったりするわけです。
私は、中学校でほぼ毎日欠かさず通信を発行してたことがあります。最初は、「大変だな…」と思いましたが、慣れれば日課となって、だいたい小一時間で完成させていました。
しかし、そのために常にネタを探していましたのです。書籍はもちろん、新聞、テレビ、ラジオ…ありとあらゆる情報、そして見聞きした出来事。
常にアンテナを張って、そうした中に溢れているネタを選び取っていったのです。
ネタは、たいていは多くの人が気づかずに見逃しているだけなのです。ここでは、そうしたネタを見つけるコツなども折々紹介しています。
(1) お説教に感じさせないお説教
(2) 何でもすべてネタにする
(3) 観察眼を持つ
(4)大切な「ひと言」をふくらませる
(1) お説教に感じさせないお説教
通信にお説教は禁物…という考え方もあります。でも、私はそうは思いません。要はお説教をお説教と感じさせなければいいのです。
学級通信ならば、文章はやや難しくても、担任がそれをかみ砕いて話しをすることができます。違った通信でも、そうした機会は作れるでしょう。
そしてそのときの話法、たとえ、話しのメリハリ…そうしたことが、怒られているお説教として子供たちが感じなければいいのです。
お説教=怒られている、叱られている」という構図が、お説教は禁物という考えにつながるのでしょうが、大切なことは話し手の心が子供たちの心に訴えかけることです。
子供たちの良心を信じて熱く語ることです。私はそのように考えます。
(2) 何でもすべてネタにする
私が発行していた学級通信は日刊でしたから、当然のことながら、毎日がネタ探しです。もっと言えば、二十四時間ネタさがしの生活となります。と言って、特別なことをした訳ではありません。
その方法は、「常に、いろいろなものに関心を持って生活する」ということです。
ラジオ、新聞、テレビ、雑誌、講演、映画、演劇、書籍などなど、日頃から得られる情報の中には、通信のネタとなるヒントが満ちあふれているのです。
また、たまには自分のことも書きます。それが、以下の『天気図三千枚』ですが、冒頭部分でちゃんとラジオの引用をしてあります。
これが、探しているうちに飛び込んでいたネタです。もちろん、いきなり本題に入るよりは、昨日聞いたラジオでね…という具合に導入した方が、スマートでしょう。
☆『天気図3000枚』
昨晩ラジオの番組で、「将棋9段の内藤國雄氏が1000勝を目指してがんばっている」と流れてきました。聞けば、1000勝を達成した棋士は、まだ4人しかいないそうで、その5人目を目指して、ここ数年中に果たしたいとのことでした。
将棋とは全く関係のないことですが、担任が気象を勉強し、天気図などを使って天気予報を行っていた頃、元予報官から「天気図3000枚」とよく言われました。“3000枚くらいの天気図を書き、天気予報をして、ようやく一人前”という意味であったと記憶しています。その頃は自分でも3000枚を目指し、一日四枚、五枚と天気図を作成し、予報を出していたことを今でもよく覚えています。
実際には2000枚くらいで、忙しくなって中断してしまい、そのままになってしまいましたが、目標に向かって頑張っていた高校生の頃を懐かしく思います。(現在では、天気図はコンピューターが作ってくれるようになりましたので、「天気図3000枚」は、
少し状況が変わってしまいました。)
1000とか3000という数字には、なぜか人間に頑張りを起こさせるものが秘められているのかなぁ、などとラジオを聴きながら考えてしまいました。君たちも具体的な目標を掲げて頑張って欲しい、と思います。
(3) 観察眼を持つ
私が通信を発行するとき、あるいは子供たちに何かの話しをする場合、「今日はこんな話しをしよう」という具合に準備しておく場合もありますが、その反対に白紙の状態で、ネタを考えていない場合があります。
もしかしたら、どちらかというと、考えていない…場合が多いのかも知れません。それは、『子供たちを見る』中で、記事が生まれてくるからです。彼らの何気ないひと言、行動、仕草が、ヒントを生み、ネタをイメージさせるのです。
担任(中学)になって間もない頃は、毎日いろいろな事件が、次々と起こって、「どうしたものか…」と悩んだこともあります。しかし、担任生活も慣れてくると、逆転の発想で、「今日はどんなことが起こるかな…」などとわくわくして待っているようになりました。子供たちの行動、一言がネタの重要なヒントとなるからです。
たとえば、本誌第36号の『我を矯める』という話しも、朝礼時の生徒の、何気ないひと言がもとになっています。
「通信を書きたいが、書くことが見つからない」という方々が大勢いるようですが、実はネタはどこにでも転がっています。まずは、よく観察して、そうした宝を発見してください。
☆我を矯める
地獄の一丁目に餓鬼地獄というものがあります。餓鬼という地獄は、「欲しくて欲しくてたまらない…けれども得られないことで苦しみを体験している」地獄です。
このことは、たいていの場合、食べ物で象徴されます。ですから、みんな飢えているのです。飢えているうちに、だんだんと身体も変化してきます。
がりがりにやせ細っているのですが、お腹がぷーとふくらんで、目はくぼみ、髪の毛も抜けて、なんともおぞましい姿になってしまいます。
この地獄の住人は、とにかく食べ物を探してます。食べ物はあるにはあります。ただし、その量が少ないので、それを多くの人が、群がるようにして「自分のもの」にしようとします。
そこには争いが起き、殺し合いをしています。たった一つの果物をめぐって、取り合いが行われるわけです。
そして、たいていの場合、強い者がその食べ物を得る、ということになりますが、たまには、どさくさにまぎれて、横取りをしていく者もいます。
ところが、そうしてやっとのことで、食べ物を得ても、彼らは決して満足することができないのです。食べようとして口に入れようとした瞬間に、ぼっと炎になってしまったり、すーっと消えてしまったりします。
必死の思いで得た食べ物ですから、とても悔しがるわけですが、そうなったらまた新たな食べ物を探すしかありません。
また、時には人間を食べてしまうこともあります。どうしても食べ物がない、ということで、その欲を抑えきれずに、「あの人間を食べてしまおう」と襲って、腕なり足なりを食べています。
でも、もとより死んでいますので、食べられた側もしばらくすると、もとの姿に戻りますので、その姿を見て、「さっき食べたのに…」と怒りだし、そして、結局満たされない状態が続くわけです。
ここには、「人のために何かをしよう」などと考える人は一人もいません。みんな自分勝手です。「自分が食べられればいい、自分がよければいい」と、そのことだけを考えています。
だから結局いつまでも満たされないのです。結局、「一つの食べ物をみんなで分けて食べよう」、などと考えたり、「自分が自分が…という姿がいかに醜いものであるか」、ということが分かるまで、この世界から抜け出ることはできません。
餓鬼地獄の住人の姿も、結局はその住人の心が姿として現れています。だから醜い姿になっているのです。
これが、餓鬼地獄の様相です。「欲しい欲しい…」という思いが強くなり、「自分が自分が…」としか考えられなかった人の世界である、と仏教では教えています。生きていく上で戒めになるであろうと思います。
人間には『我』というものがあります。「自分さえ良ければいい」という、わがままな心です。やはりこれは抑えなければなりません。このことを『我を矯める』と言います。
そうした「道を外れた心を正す」、という意味です。自分が自分が…という思いが強くなってきたと思ったら、餓鬼地獄のことを思い起こしてください。
そしてその時に、地獄に住む人の醜い姿は、その人の心そのものである、ということも思い起こしてください。
メールマガジン『学級通信のネタ』第36号より
(4)大切な「ひと言」をふくらませる
通信は限られた字数で作られる文章ですから、毎回そのなかにテーマがあるはずです。しかもそのテーマは、たいてい一つであろうと思うのです。そのテーマこそが、筆者の主張であり、子供たちに語りかけたいことでありましょう。
テーマを掲げたならば、文章化作業に移ります。まず、そのテーマとなる大切な「ひと言」をもとに、関連事項を探します。これがサブテーマです。これらを、二、三書き上げてみます。そしてそれぞれ、たとえ話を付け加えてゆくのです。
テーマとなる「ひと言」は、文末に配置することが多いですから、次に、どんな書き出しにするかを考えます。基本的には、これらがうまく文章としてつながっていけば、一つのテーマをもった文章となります。
慣れてくると、実際これらの作業は、頭の中で構築され、いきなり書き出しから文章が湧いてくることになりますが、まずは、こんな方法で文章構成をしてみてはいかがでしょうか。
本誌の多くは、こうした仕組みで書かれています。